本文ここから<第2話 眠れぬ夜> なぜこんな目に![]() 朴木常重が入院生活を送った済生会富山病院=富山市楠木 眠れなかった。平成十九年十一月下旬の夜、朴木常重(87)=富山市呉羽町=は、済生会富山病院(同市楠木)のベッドで宙を見つめていた。
この日の午後、昼寝をしていた常重は腹部に痛みを感じて目覚めた。何か重い物が載っている。 「どけてくれんか」。そばにいた妻の節子(82)に頼んだ。 布団をめくった節子の手が止まった。「それ、お父さんの腕なの」。足元の方に布団を置いてから、言いにくそうに口にした。 常重は、しばらく妻の言葉の意味がのみ込めなかった。脳内出血で倒れた後、意識が戻ってからも、頭がぼんやりしている。体の自由が利かない。左目が見えず、横になった状態では腹の辺りもよく見えない。 妻の言葉を確かめてみた。右手でおなかに触れる。何かある。なぞっていくと、左肩にたどり着いた。指先に力を込める。何も感じない。感覚がない。 節子が後遺症のことを話し始めた。左半身がまひし、左目は失明したという。車いす生活になるらしい。 「そうか」。説明を聞き終え、常重はつぶやいた。「リハビリを頑張ろうね」という妻の言葉にうなずいた。ショックだったが、平静を装った。取り乱せば、余計な心配を掛ける。 夜、消灯時間が過ぎた。病棟は静かだ。病室のベッドで、常重は宙を見つめたまま、やり場のない悔しさを感じていた。 「どうしてわしがこんな目に」。涙があふれてきた。
家族を大切に思い、まじめに生きてきた。常重は大正十年、中国・上海で生まれた。父は富山市に本社がある製薬会社の上海支店長だった。日本人学校を出た後、十六歳でいったん帰国。岐阜の薬学専門学校を卒業し、昭和十七年、二十一歳の時に父母が暮らす上海に戻り、就職した。 父親同士が知り合いだった縁で、節子と結婚することになった。四つ年下の節子は、上海近郊で商社を営む事業家の長女だった。 挙式の前年の十八年五月に、常重の母が亡くなった。翌年三月に父も急死。式は秋に予定されていたが、常重の方から断った。幼いきょうだい三人の親代わりを務めなければならず、苦労を掛けるのが目に見えていた。それでも、節子は両親と話し合い、常重との結婚を選んだ。 終戦の翌年、妻や生まれて間もない長女の由利子らとともに、上海から亡父の家がある呉羽村(現富山市)に引き揚げた。持ち帰ることができたのはわずかな身の回り品だけだった。 帰国後、常重は富山市内の製薬会社で働き始めた。やがて次女が生まれた。戦後の厳しい時代に、節子とともに二人の子どもを育て、きょうだいの面倒も見た。酒は飲まず、家族と過ごす時間を大切にした。 老後は、節子と娘夫婦の四人で暮らしてきた。妻と旅行に出掛けたり、週末ごとにやって来るひ孫たちの相手をするのが楽しみだった。そんな常重を襲ったのが、脳内出血だった。
夫が退院したら、自宅で介護するか、それとも施設に入ってもらうか。常重が半身まひの現実を受け止めきれずにいたころ、節子も悩んでいた。 夫は、介助がなければ、ベッドから起き上がれない。座ることすらできない。排せつや入浴、食事…すべてに助けが必要だ。主治医からは、在宅での生活は容易ではないと言われていた。 家に戻ってきてほしいが、築七十年余りの自宅では車いすでの生活は難しい。同居している娘夫婦にも迷惑を掛ける。看病疲れで、節子も体調が思わしくない。かかりつけ医からは「共倒れになりますよ」と忠告されていた。 結論を出せないまま時が過ぎていった。(敬称略) (2008年6月7日掲載) |