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越中流 第3部 あすを拓く

14.火道掘削

雲仙・普賢岳の掘削プロジェクトを進めた中田さん=東京大地震研究所

雲仙・普賢岳の掘削プロジェクトを進めた中田さん=東京大地震研究所

「火山の中 のぞいてみたい」 探究心が計画実現

 平成二年十一月十七日、長崎県の雲仙・普賢岳(一、三五九メートル)が噴煙を上げ始めた。当時、九州大の助手だった中田節也さん(53)=火山岩石学=は、噴火のニュースをアメリカで知った。米国地質調査所西支部(カリフォルニア州)に留学中で、現地のテレビに普賢岳の映像が流れたのだ。
 中田さんは南砺市細野(城端)出身。高校時代までは夜空の大好きな「天文学少年」だったが、金沢大に進んで地質学を学び、やがて岩石の研究に夢中になる。火山活動の結果として生まれた岩石の中に、地球という星の歴史が感じられた。
 九州大に移り、研究を続けていた中田さんにとって、普賢岳は研究フィールドとして受け持っている火山だった。中田さんは遠く離れたアメリカで、噴煙を上げる普賢岳のテレビ映像に見入った。留学は翌年三月までの予定。「帰国を早めようか」と考えたが、この時点では後に大災害を起こすとは思いもしなかった。

 六カ月余りたった三年六月三日、普賢岳で大火砕流が発生した。六百度を超す溶岩片を含んだ火砕流が、ふもとの集落をのみ込み、住民や研究者ら四十三人が亡くなった。既に帰国していた中田さんは、九州大の島原地震火山観測所に通いつめ、普賢岳の活動を記録していた。
 現地に大挙して押し掛ける報道陣に対応できるのは、普賢岳の地質に詳しい中田さんしかいなかった。新聞やテレビに度々登場し、嫌が上でも注目されるようになった。
 普賢岳の噴火活動がほぼ終息した七年、豊富な現場経験が評価されて、中田さんは東京大地震研究所に助教授(現在は教授)として迎えられた。
 その年、シンポジウムに参加するために来日した研究者を連れ、中田さんは普賢岳を再訪した。このとき、アラスカ大教授のジョン・アイケルバーガーさんが言った。
 「火道(マグマの通り道)へ穴を掘れないか」。
 中田さんはびっくりした。「やっと噴火が終わって住民がほっとしている時に、とんでもないこと言う人だな」。一方で「直接火山の中をのぞいてみたい」という、研究者としての探究心も頭をもたげた。
 思いは急速に膨らんでいく。中田さんとアイケルバーガーさんは連名で、「火道掘削プロジェクト」を、掘削による地質調査を支援する国際機関ICDP(国際陸上科学掘削計画)に提出した。ICDPの技術的な検討会でも「掘削は可能」という結論が出た。

 必要な人材を求めて、中田さんは通産省地質調査所(現・産業技術総合研究所、茨城県つくば市)にも声を掛けた。
 手を挙げたのは、調査所の同位体地学研究室長(当時)、宇都浩三さん(51)だった。「最初は実現性が低いと思ったんですが、中田さんの研究者としての熱意にほだされてましてね」と宇都さんは話す。
 九年、プロジェクトは宇都さんが加わって一気に動き出す。「何らかの成果を残す必要がある」と考えた宇都さんは、噴火物を採取し普賢岳の歴史を解明する調査などを計画に加えた。
 結果的にこれが功を奏した。計画は文科省などに評価され、総額二十億円の予算がついた。


メモ:雲仙・普賢岳の噴火
 平成2年から7年まで噴火活動を続けた。長崎県島原市によると、火砕流や土石流による死者・行方不明者44人、負傷者11人、被害家屋は2500戸以上。農業や商工業などへの被害総額は2299億円。死者1万5000人を出した1792(寛政4)年以来、約200年ぶりの噴火だった。

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