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県内全域の動き
←前へ 2003年5月9日(金)付朝刊 次へ→

飛騨と幻の大合併 大正期、神通川の治水引き金に構想浮上

富山県と岐阜県吉城郡・大野郡の位置 大量の流木が富山湾を埋めた平成11年9月の流木騒動。その“発生源”となった神通川上流域の岐阜県河合村と宮川村などを含む飛騨地域で、大正年間に富山県との合併構想が浮上した時期があった。神通川のはんらんに悩まされていた富山県が、上流部の飛騨地域を県域に編入し、下流部まで一貫した治水対策を進めようともくろんだ。120年前の富山県誕生以来「水との戦い」に明け暮れた富山ならではの発想。もしも合併が実現していれば、県の総面積は現在の2倍近くになっていた。各種文献から「幻の合併構想」をひもといた。

 大正3年8月13日。北アルプスに抱かれた岐阜県・飛騨地域に降り注いだ雨は、神通川流域に空前の洪水被害をもたらした。富山市を中心に死者・行方不明者は100人以上に上り、翌14日夜には岐阜県坂下村(現・宮川村)で土石流が発生。同村でも死者36人、罹災家屋156戸の惨事となった。

 当時の浜田恒之助県知事は、たび重なる神通川のはんらんに頭を痛めていた。飛騨一円にも足を運び、被害状況をつぶさに視察したこともあった。集中豪雨から約2カ月後の10月10日、意を決してこう主張した。

 「神通川の水源地なる大野、吉城の二郡を割きて富山県の行政区域に編入し、理想的な治水方法を施設し、県民の塗炭の苦しみを未然に救う」(国交省神通水系砂防事務所「奥飛騨の砂防」より)。

 延長120キロの神通川水系は、上流域を中心に半分近くが岐阜県を流れる。富山県側の下流部の改修を重ねても治水効果は上がらず、水禍の根源を絶つためには上流部も富山県に組み入れ、一貫した治水対策をとらなければならない、との発想に基づく決断だった。翌11月には県議会も行政区域を越えての合併案を議決。当時の浅野長保議長は大隈重信内務大臣に意見書を提出した。

 この動きに対して岐阜県側は強く反発した。岐阜県議会は「合併案を受け入れることが流域の産業、文化、住民の生活を良くするとは考えられない」との見解をまとめた。水害によって多額の負債を抱えていた富山県と合併すれば、飛騨地域の住民にも負債を背負わせることになるとの思いも強かったという。合併対象の町村長や地域の総代は内務大臣や国会へ反対の陳情を繰り返し、結果的にその実現を阻んだ。

 もしも、この合併が実現していたら−。現在の行政区域で試算すると、3町3村の吉城郡と1町7村の大野郡に、高山市を含めた飛騨地域の面積は約3,300平方キロ。富山県の約8割に及ぶ地域が新たに県域に加わることなった計算だ。現在でも県境をはさんだ岐阜県側の町村では「買い物など半分は富山県の生活圏」(神岡町総務課)。自治体間でも飛越交流連絡協議会を設立し、地域間交流を深めるなど、つながりは深い。神通川の治水対策をめぐる富山、岐阜両県の駆け引きはその後、国が砂防事業を請け負うことにつながり、大正8年に国交省神通水系砂防事務所(神岡町)の前身となる内務省新潟土木出張所坂下砂防工場が設置された。

 同事務所の田村圭司所長は「富山県と岐阜県に合併構想があったことはあまり知られていない。治水対策に心血を注いできた富山県の歴史を振り返る上でも、貴重な一こまではないか」と話している。

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