村の児童が、12歳で進路選択を迫られるのは、昭和20年代後半の「昭和の大合併」が影を落としている。戦後、市町村が新制中学の維持運営を担うことになり、1学年3学級の中学校1校を持てる「人口8000人」を目安に、自治体の再編が進められた。
当時の村の人口は約3千人。隣接の新湊市、呉羽、小杉両町から誘いを受けたが、村は独立を守った。この選択が、児童の進学先を二転三転させることにつながった。
村は22年、周辺3村で組合立の中学校を設置。だが、北部地区の住民が近くの和合中に子どもを通わせるなど、児童の進学先をめぐって村は混乱した。2年後に老田村(現富山市)と組合立射水東部中を設けたが、長くは続かなかった。
「突然、中学が廃校になり、小杉に転入した。受験を控えて不安でならなかったよ」。当時中学2年だった尾上清逸さん(55)=下村白石、大門町職員=は振り返る。
29年に老田村が周辺3村と合併し、呉羽町になったためだった。村議会は組合を解消し、単独で射水東部の運営を続ける方針を決めたが、村当局は「財政的に維持は困難」と判断。尾上さんらは37年、小杉など3校に振り分けられた。以来、村の児童は周辺自治体の中学に「委託生」として通学している。
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