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正念場の地方自治 No.12 連載目次 前へ 次へ

第2部 巨大化の未来は 最後の町長(上) 2003.01.31
 水橋漁港にほど近い自宅で、藤木進さん(81)は遠くを見すえるように目を細めた。「平成の大合併」へと県内市町村が大きく動き出し、日々の報道を通じて合併論議が耳に入る。「思うところはあるが、あれから40年近くもたつ。私の話が役に立ちますかな」

 昭和の合併が県内で完結したのは、水橋町が富山市に編入された41年5月1日だった。人口1万6000人の水橋町の舵(かじ)取りを任された最後の町長が、藤木さんだ。

 「あのころは貧乏な町やった。大きな工場はなく、住民の仕事は家庭薬配置業や農業が中心。実入りが少ないうえ、“金食い虫”の漁港改修など支出だけは多い。助役になった33年には台所は火の車で、手のつけられん状態でした」

過大投資で赤字抱え
財政再建へ苦しい道
 多くの町村は20年代後半から財政のやりくりに苦しんだ。朝鮮戦争の特需景気が終わって税収の伸びは鈍ったが、市町村の担う仕事は増えていた。政府は中学校を運営できる「人口8千人」をめどに、合併を推進。新たに出発した自治体は、旧町村の合併条件をかなえようと公共事業を増やした。水橋町はその典型例だった。

 富山市に吸収合併される12年前。29年の町村合併で、旧水橋町は隣接する三郷、上条の2村と手を結んだ。新庁舎の建設に始まり、漁港改修、学校の増改築…。議員数は、村部が旧町を上回り、農道の拡張要望なども出された。「平成の大合併」のような、建設事業を支える手厚い優遇措置はなく、過大な投資で財政は悪化。合併して間もない31年には財政再建促進法に基づく準用団体に指定された。

 藤木さんは言う。「いわゆる財政再建団体ですな。5年間で、町を建て直すことになっていた。助役になったときは、そんな事情とは知らなんだ」

 役場のたたき上げではない。京都帝大の政治学科を出てすぐに応召し、終戦後は東北で漁業に就いた。兄の戦死を知り、家の跡取りとして帰郷。近くの会社に勤める傍ら、政党の青年部を結成した。その手腕を買われ、前町長から「助役に」と請われたのが33年。世話になった町の有力者の勧めもあり、断りきれなかった。

§   §   §

 税率を引き上げ、職員の整理などで人件費を抑えた。自主的に進められる事業はなく、財源のほとんどを赤字解消に振り向けるしかない。「住民にすれば、高額の税を納めながら、見返りのない悪循環だった」と藤木さんは言葉を詰まらせる。

 2年後に町長選に担ぎ出されたときは、まだ38歳の若さだった。

 −町民全体がさまざまな希望を、どんよりとした越野の暗い冬空に向かって抱きしめている。激しい苦しさを包蔵するであろうが、苛酷(かこく)な現実の中を突進して…。

 町長になってすぐにまとめたのが「新水橋町建設計画書」だ。巻頭に寄せた言葉は町の建設へ、住民に協力を呼び掛ける異例の内容だった。

 高度経済成長もあって収支は改善したが、苦しい行政運営は続いた。39年度の市町村税8500万円は、水橋よりも人口の少ない大山町の半分に満たない。土木費は氷見市並みだった。「財源のない町は、やっていけない。町長になったころから『合併しかない』と頭に描いていた」

 39年。4歳年上の若い助役を迎え、藤木さんは「最後の合併」へと踏み出すことになる。

富山市に編入された水橋地区。中心を白岩川が流れる
富山市に編入された水橋地区。中心を白岩川が流れる
 昭和の大合併から半世紀がたつ。戦後に地方自治制度がスタートしてから、県内市町村は幾度も再編の波に洗われた。財政難を切り抜けるため、増え続ける行政事務に対処するため…。さまざまな思惑がうごめいた過去の合併を経て、市町村は今また「巨大化」への道を歩み始めた。再編後の行政はどうなるのか、地域が抱える問題は解決するのか。歴史を踏まえ、今を生きる住民の暮らしから未来を見つめる。

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