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正念場の地方自治 No.13 連載目次 前へ 次へ

第2部 巨大化の未来は 最後の町長(中) 2003.02.01
 水橋町の最後の町長を務めた藤木進さん(81)の右腕として昭和39年の9月、1人の男が助役に迎え入れられた。町議会の副議長として鳴らした林清忠さん(85)=富山市水橋中村=だ。林さんはその2年前の春ごろから、「合併」へと水面下で動き始めていた。

 「相手は最初から富山市だったわけではありません。議員の1人と一緒に非公式に、当時の滑川市長を訪ねて打診したんですわ。『水橋と合併しませんか』と」。先月、久しぶりに藤木さん宅を訪ねた林さんがそう語ると、藤木さんは「町長だったわしも知らん話だ」と驚いた表情を見せた。

抑えられた合併条件
財政再建へ苦しい道
 水橋町と滑川市は、上市川を挟んで街並みが続いている。経済的にも商工会を中心に交わりが深かった。「だが、滑川市長の答えはノー。水橋と合併する意思はない、と断られたがです。水橋も滑川も、ともに漁港を抱えている。改修などに支出がかさみ、合併すれば金の奪い合いになるのは目に見えとる−そんな理由やった」と林さん。滑川市に“振られた”ことを伝え聞いた富山市の議長から、即座に合併の話を持ち掛けられた。

 富山市は、36年に広域都市圏構想を打ち出し、周辺市町村の合併を呼び掛けて「日本海時代の中核都市」を目指していた。エリアを広げ、急速に発展する県都。当時の政府やメディアも「住民の生活圏が広がり、小さな自治体では実情に即した行政が難しい」「行政の質を高めるには、規模をまとまったものにする必要がある」という論調だった。2人は「今と状況は似ている。寄らば大樹の陰ではないが、大きい都市と一緒にならなければ、メリットがないと考えた」と言う。

 富山と水橋両市町の合併が公式に表明されたのは、呉羽町が富山市に編入された直後の40年5月だった。市役所で湊市長と会談した藤木さんは「小さな町では大きなことはできないが、きめ細かい行政ができた。かゆいところに手が届くように」と要望し、交渉を進めることで合意した。

§   §   §

 町長と助役のコンビはこの年、住民への説明に明け暮れた。「今のままだと、また財政再建団体に陥る。住民から、どんな要望を受けてもこたえられない」「水橋はベッドタウンになる。県都の玄関口として、公害のない住宅地として伸びるはずだ」。反対意見が強い町部では各町内ごとに足を運んだ。「若かったからできたがや」と藤木さんはしみじみと語る。

 富山市当局も、合併による財政悪化を懸念した議会に対し、国道8号を中心に工業地の造成や公共住宅を建設するといったビジョンを強調した。

 41年5月1日、両市町は合併した。合併の条件として、富山市側が了承した事業は、学校の増改築や公営住宅、公民館建築など5カ年で5億6千万円。

 「条件は抑え込まれたが、水橋の立場ではのむしかない。だから合併直前、まだ水橋町だった4月の1カ月間で7千万円を使った。町の将来を思い、道路拡幅のための用地買収に充てたがです。町財政の年間規模が2億数千万円でしたから、大きな金やった」と林さんは振り返る。この年、白岩川のほとりに商工文化会館も完成し、地域の新しい歴史が始まった。

富山市と水橋町の合併を振りかえる藤木さん(左)と林さん
富山市と水橋町の合併を振りかえる藤木さん(左)と林さん=富山市水橋印田町

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