北山組合長は、岐阜県境の大長谷村出身(現八尾町)。中学卒業後すぐに、地元の山林のほか、河合村などでの伐採作業に従事した。当時の村の人口は約2千人。飯米を自給できないほどやせた土地柄のため、村の男の大半は炭焼きや伐採などの山仕事に就いた。
ところが、昭和30年代初めに隣接の仁歩地区で室牧川県営ダム工事が始まると、住民は収入不足を日雇い労務者となって補うようになった。やがてそれが日常化した。土建会社のマイクロバスによる送迎という便利さも手伝い、山仕事に見切りをつける住民が増え、離村へとつながっていった。
当時の山村の暮らしは、互いに労働力を提供し合う「結い」で支えられていた。屋根ふき替えや道路整備、除雪は集落単位で行うため、一軒が村を離れれば、残った世帯の負担は増す。八尾町との合併も重なり、一つ、二つと集落が消えた。過疎は坂を転がり落ちるような勢いで加速し、収入源だった山林は見向きもされなくなった。
流木騒動の“震源地”となった河合村なども、状況は同じだった。
間伐されない人工林は、樹木の生存競争が激化するため、地中深くまで根を張らない。戦後の国の林業政策が効率を優先し、スギ一辺倒の植林を進めたことも重なり、山林の保水力は著しく低下した。
北山組合長によると、崩壊を起こした神通川上流の山林の中でも、離村の進んだ旧集落跡周辺で特に被害が目立った。「記録的な集中豪雨に見舞われれば、どの山林もひとたまりもない。目先の経済効率ばかりを追い求めてきたなれの果てだ」とため息をつく。
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