高岡市は第2次大戦中から周辺町村を吸収し、規模の拡大を続けた。伏木町をはじめ、国吉村、太田村…。昭和41年に戸出、中田両町を編入し現在の姿となった。
戸出は29年、周辺3村が合併して誕生した町だった。合併を契機に、小学校の統合などを進めた。過大投資がたたり財政は急速に悪化。新産業都市に指定された高岡市などへの対抗上、39年に町建設計画を策定したものの、予算不足で着手のめどすら立たなかった。最後の町議会議長だった松島敏弘さん(77)は「町営プール建設費800万円の一部を、町長と2人で個人保証をしたほどだった」と振り返る。
高岡市から合併を持ち掛けられたのは、ちょうどそのころだった。市は30万人都市構想を掲げながら、氷見や新湊などの賛同が得られず、戸出、中田両町との合併に照準を移した。戸出は社会基盤整備を盛り込んだ建設計画の実行のほか、役場を支所とし、行政機能を残す−などの条件で合併に合意した。松島さんは「考え得る最良の選択だった」と言う。
しかし、当時の判断を悔やむ住民は少なくない。市は建設計画に基づいて住宅団地を造成し、人口は3千人増の1万4千人に伸びた。その半面、中心部に比べて「施設整備が遅れている」と受け止める声は強い。独立を守った舟橋村のように、市街化調整区域の除外は実現できず、計画的な町づくりは難しかった。恵まれた立地条件にもかかわらず、大型小売店は進出せず、企業誘致も進まなかった。支所は縮小の一途をたどり、事実上窓口機能だけになった。合併時の約束が果たされたとは言い難かった。
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