富山県内の市町村合併 ホーム > 市町村合併 > 正念場の地方自治
正念場の地方自治 No.29 連載目次 前へ 次へ

インタビュー編 高橋 盛吉氏 前岩手県北上市長 2003.02.20
 岩手県北上市は平成3年4月、3つの市町村が合併してスタートした。岩手の真ん中を北から南へ流れる北上川。その中流域にある同市は人口9万25,00人と、盛岡市に継ぐ岩手第2の都市だ。合併後に1万人近くも増え、成功例の1つとされる。高橋盛吉前市長は「生活圏が同じだった。住民の気運が高まったところでうまく合併できた」と振り返る。合併したのは、特例法の財政的優遇策がない時期。「アメをしゃぶってみたかった」とユーモアも交え、成功の秘けつを語り始めた。
十分に示した判断材料

特例法の財政的な優遇策もないころに、なぜ自主合併したのか。

 昭和61年、旧北上市の市長になったときの公約に合併を掲げておりました。「日常の暮らしは、市町村の垣根を越えて動いている。行政の垣根だけを残す必要はない」というのが、その理由でしたね。旧北上市と和賀町、江釣子(えづりこ)村は昔から住民の行き来があり、風俗習慣も、生活圏もまったく同じでした。

今のように期限を切られ、せかされていたわけではない。じっくりと協議できたと思うが。

 まず首長同士が毎月、朝食会を開き、意思疎通を図りましたね。議会は以前から交流が深く、住民の意識調査でも7割が前向き。62年ごろから、研究会や法定協議会を40数回開き、住民説明会も120回ほど開いたように思います。住民への資料配布は70回を超えましたね。十分な判断材料を提供できたと自負しています。合併には行政と議会、住民の盛り上がりが不可欠です。

役場本庁の機能を分ける「分庁舎」方式にした理由は。

 最初から分庁舎だったわけではありません。昭和の合併でも役場の位置で血の雨が降ったと聞きますが、やはり最後まで難航しましたよ。江釣子村に将来、庁舎を新築すると決め、当面は旧北上市役所を本庁に、他の役場を支所として使うことにして、新市発足にこぎつけました。支所をオンラインで結びましてね。「勤務先に近い庁舎で手続きができる」と、評判は悪くなかった。

 だが、部長クラスを支所長にしたところ、例えば農業分野で、農政部長と支所長はどういう位置づけなのか、「権限と責任」の所在が混乱してしまった。そこで分庁舎方式を採用し、農政部なら農村の役場へと、本庁機能をそれぞれ分けて置くことにしました。

高橋盛吉氏
 たかはし・もりよし 大正12年岩手県生まれ。経済企画庁などを経て、岩手県総務部長などを歴任。昭和61年に北上市長となり、平成3年合併後の新北上市長に。11年退任。現在、北上オフィスプラザ社長。
将来ビジョン明確に

人口増は合併前から見越していたのか。

 増える要因はあった。それは工業の伸びです。昭和の合併で、旧北上市は県内で一番小さな市でした。都市間競争に負けないため、工業振興に力を入れ、条件整備を進めたのです。今は大小合わせて10の工業団地に、精密機械や電子部品関連など150社ある。重厚長大の臨海型から、軽薄短小の内陸型へと時代は移り、新産業都市だった秋田や八戸より伸びた。大企業だけでなく、東京から町工場を呼んだのも奏功しましたね。

 それに新幹線駅や高速道があり、空港も遠くない。高速交通体系に恵まれていた。人が集まってくるのは職があるからです。歴代の市政の成果が実を結んだといえる。

工場数と従業員数、工業出荷額では岩手県内1位。そのほかに、農業生産額もトップと聞く。

 今の時代は農家も、ほかに働く場があって支えられています。近隣の町村のためにも、工業の振興が大切だった。

 人が減り、過疎化していく農村や山村は運営が厳しい。私が反省しているのは、中山間地の近隣町村とも、手を結ぶべきだったということ。人口が増える地域と、減っていく地域に境目をつくらず、全体のあり方を考えるべきだったと…。

 ただし、中山間地の過疎化や中心商店街の活性化は、合併したからといって解決できない問題です。しっかりとした政策が必要だと思う。

将来ビジョンが大事だということか。

 行政を担うからには現実を見極めなければならない。合併する場合も独立独歩を貫く場合も、将来こうなるという見通しを明確に掲げ、住民の理解を得るべきです。


(C) 北日本新聞社 記事・写真の転載を禁じます
The Kitanippon Press, All Rights Reserved